◎願いの信心の本質。(後にこの日の御理解のことを「テキスト」と頂かれる。)
%1飯塚の安藤さんが永い間、お取り次ぎを頂いて願われた癌の人。
%V
昭和四五年四月十四日 朝の御理解
X御理解第五十一節「天地の間に棲む人間は神の氏子、身上に痛み病気あっては家業出来難し、身上安全を願ひ家業出精五穀成就牛馬に至る迄、氏子身上の事なりとも、実意を以って願へ。」
人間は神さまの氏子であり、親神さまとして、云うならば子供が親にものを頼むように、又は乳児が母親のひざにすがって、乳を求めるように、そうゆう純粋な心。当然と云えば当然、当たり前と云えば当たり前、親が子の事を願い、子の事が親にすがっていくとゆう、そうゆう純粋さをもってね、神さまに願うていくすがっていく。
%V私共の周辺に様々な難儀問題が有りまして、その事を段々願わずにはおられない確かに身上に痛い痒いがあっては、家業が出来難し、その為にはやはり、身上安全と願い、その願う内容としては、家業出精五穀成就牛馬に至る迄。もう自分の周囲の全ての事が丁寧に、親が子にすがる、乳児が母親のひざにすがっていくような純粋さをもって願う、もう理屈はない、理屈を抜きにして何なりとも願っていく、すがっていく、実意をもって願えと、いわゆるそうゆう純粋さをもって願う。
ところが、これだけの事は自分で出来る、出来んところだけは神さまにお願ひをする。自分が本当に困ったと思わなければ願わない、そうゆうものの考え方こそ、これは横着とゆうものではなかろうかと思う、何が出来るか。
そこで、そんなら信心の初めのところはどうゆう事になってくるかと云うと、やはり、その難儀な問題やら、自分の力、知恵では出来ないところを、神さまの力にすがろう、と云うて御信心を始めたり参って来りするのが、ほとんどでございますからねぇ。
ですから、私はここに信心をね、ひとつそうゆう信心から、云うなら、そうゆう純粋度の高い至純な思いですねぇ、すがらなければおられない、とゆうところ迄をね、一から百までと、たとえるなら、ですから、神さまちゃ悲しい時の神頼みといったようなところ迄をまあ五十と致しましょうか。只、毎月拝みもせん、参りもしない、けれども何かとゆう時には、やっぱりお願いに行くのは金光さま、そしてたとえて云うと、身上の事、牛馬の事何でもかんでも、お願いが出来ると云うてはお願いをする、それをまあ五十迄と致しましょう。一から百迄を信心として。
それにさき程申しましたように、実を云うたら、親と子との間柄、私共と神さまとの続柄とゆうのは親と子の続柄、そうゆう血のつながりとゆうものをです。素直に認めてです。私共がそうゆう乳のみ児のような純粋さをもって神さまにすがっていく。すがりなければおられんのです。とゆう至純なものが信心には求められる訳です。必ず、それをここでは、実意を以ってと最後に云うておられます。
至純なもの、純粋なもの、ところがそこ迄に致る迄にです。やはり、一から五十迄の信心の間は、神さまちゃ悲しい時頼むのが神さまじゃといったような信心の時代。
%V御理解百節に、それこそ芽出度、芽出度の若松さまよと、枝も栄える葉も繁ると云うではないか、生神金光大神の道は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと、おっしゃるような道をいよいよ分かって体験得して、そうゆうおかげを戴いてゆこうとゆう事はだから、五十を過ぎた、いわゆる五十一節その五十一節その五十一節、そこから私は本当の芽出度、芽出度とゆうようなおかげに‥‥子孫繁盛家繁盛の元とゆうのは、この中ばから一歩ふみ出したところから、それを真の信心と云うのであり、それからが、云わば本当の家繁盛子孫繁盛の道を開けてくるとゆう事を思います。
そうすると、この五十一節にもの御教が来たとゆう事は実に神ながらな事だと思いますねぇ。だから皆さんの中にもです。まあだ一から五十迄のところを、ウロウロしてる人もたくさんありましょう。まあだ、そうゆう至純なものではない、その乳のみ児のような純粋さをもって母親のひざにはい上がっていく程しの至純なもの、そこには母親が抱きかかえて、お乳を与えずにはおかんとゆう働きが有るんですけれども、自分の云うなら悲しい時だけが、神さまにお願いするんだといったような信心、まあ願わん分が損といったような時代も有りますよねぇ。
もうそれこそ、時たまに参って来といてからもうずーっと箇条書にお願いする事を書いて来とるから、それでもまあ、いっちょ忘れとったとゆう風で又、もうお願いしとかにや損するとゆう風にです。まあ願うていかれる人もある、そうゆう時代もある。それでもいけないのじゃない、まあだ家業出精五穀成就牛馬の事に致る迄、例えば実意は持たんでも願うとゆう時代。
%Vそして信心を段々に段々に分からせて頂いてです。事の道理が分かり、ものの道理が分からしてもらい天地と私共とも間柄、続柄がいよいよはっきりしてくる。云うなら、この神さまのおかげを頂かなければ立ち行かんのだとゆうところからです。私は 真の信心の第一歩があると思いますね。そこから身上の事、家業の事、五穀成就の事、それは牛馬の事に致る迄、もう一切合切がすがりなければおれません。
%V例えて云うなら、私がこれから善導寺にやらせて頂く、そしてお礼参拝させて頂こうと、云うでも、とに角すがって行かなければ、願ってゆかなければ、おられないのです。そこ迄やらせて頂きますからと、ことわりをして行かねばおられんのである。
そこからが、私は信心の中ばを、いわゆるお願い信心から、真の信心を求めての第一歩がそこに有るとこうおもうです。
%V昨日は十三日会は大変盛会でしたですねぇ。中に、私が佐藤元範先生のお書物の中から頂いた分かりやすく申しますと、「一、自分で出来るとゆう事はないとゆう事。」
%Vそこ迄分かる為にです。一から五十迄たどらなきゃならんのですよ。話しを聞きゃすぐ分かりますよね。いつも私が申しますように、そんなら、このおへいぎひとつ持つとゆう事だって、私が今、こうやって持っておるようであるけれども、これは自分で持っておるのじゃない、持たせられて持っておるのだと、許されて持っておるのだとそうでしょうが、中風になった人のこのおへいぎを持ちなさいと云うたって持てんもの。してみると、私共は許されて持っておるんだとゆう事なんです。持たされて持っておるんだと。そんなら、そこ迄が実際分かる迄に、一から五十迄たどらなきゃいけんとゆう事。
だからね、そんなら佐藤元範先生も云っておられますよ。これは教育者でおありになりますからねぇ、金光高校の校長さんなんです。何十年間教育関係の事に、たずさわってみえられて初めて分かられた。とてもとても自分で教育が出来る事ではない事が分かられた。子供達をたくさんあずかっておるが、自分が先生だから、自分で教育が出来るとゆう事はないとゆう事が、初めて五十のところ迄みえた時に分かられた。簡単に分かる事じゃないと思う。
理屈の上では今私が申しますように、そうでしょうが、このおへいぎひとつ持つ事すらが、実は自分には出来んのだとゆう事が分かる事なのだ。
そこで神さまのおかげを頂かなければ出来る事ではない事が分かるから、私がちょっと善導寺迄、お礼参拝させて頂くでも神さまにお許しを頂きお願いをしてわかなけれど、そこ迄分かる迄、一から五十迄いる訳ですよ。それでもね。自分で出来る事ではない。そんなら、放任しときゃよいかと云うと、そうではなくてです。やらねばならん。云わば教育者である為に、教育はやらなければならんとゆう事。
%V信心でもそう、信心を人間と天地との関係、親神さまと私共との関係を思うたら、信心はしなければならないものである事が分かる。ですから、例えば辛くても眠くても、時間がかかっても、それを断行する。その修行をする。そうしていくところから、今度は段々有り難うとなってくる訳ですねぇ、そしてせずにはおられないとゆうところ迄高められてくる。
%Vせずにはおられない、そこんところが、この五十一節、実意を以って願えとゆうところは、云うなら、そのように、ある意味では稽古に稽古を積んだ上にしかも、その至純なもの、それは丁度赤子がもう何のこだわりもなく、やはり母親のひざの上に、はい上がっていくのと、同じ、そしてお乳だお乳だと例えば願う、願わずにはおられない、そうゆう至純なもの、純粋なものをもって願う、しかもそれは牛馬の事に致る迄、願う、実意を以って願う、そうゆう至純な心をもって願う願わずにはおられないとゆうもの。
%V私は今日この五十一節を頂いてですねぇ、本当にこの五十を信心の中ばとするなら、その一節の一歩をふみ出すところから、私が願いに願っておる真の信心第1歩とゆうものがあるんだとゆう事を今日は痛感致します。
そこからですね、例えばとに角、朝参りさせてもらわなければおられん、夜やすませてもらう時には、御神前にそれこそ深々とした祈りが捧げられなければおれない事になってくるのですよ。
そこからです。全ての事が願われる、お取り次ぎを頂かせてもろうとかなければ安心がいかんとゆう事になってくるのじゃないでしょうか。
%V私、今日御神前に御祈念中に頂く事が、『九重佑美子と頂いた。歌手におりますねぇ、九重佑美子と』、その事を頂いてです。私はどのような事があろうかと思うて、今日は胸のドキドキする思いで、これを聞かせて頂いたら、五十一節、だから、今日私は信心を例えば仮定してです。一から百までのものとしてです。お互いが、五十迄は云うなら雑信と云うてもいいでしょうねぇ、そこ迄はそんなら何様でもいいとゆう事になるのじゃないでしょうかねぇ、御利益さえ下さりゃ、何さまでもよいかと、ゆう事になるのじゃないでしょうか、悲しい時の神頼み的なものですから。けれども、その雑信をさせて頂いておる間にです。天地の道理が分かり、天地の親神さまの云わばお心が分かり御性格が分かり、そして私共との続柄が分かり、関係が分かり、そしてそこに血のつながりを感じるところから神さまの願いが、云わば私の上に成就してくる事を願われてくるように段々信心がなってくるところからです。いわゆる、ガラッと信心の姿勢が変わってくる訳なんです。
%Vそこからが云うなら真の信心の第一歩である。そして百節で申しますとです。いわゆる芽出度、そして百節で申しますとです。いわゆる、家繁盛子孫繁盛の道を教祖金光大神は教えて下さってあるのであるから、その道を体得させて頂かなければならんとゆうところから五十中ばから、一歩をふみ出したところから、信心が始まるんだとゆうこと。
%Vそうしてです。例えばさっき申しました。とても、自分では出来るものではないとゆうところから、それでもしなければならないとゆうところから、それでもしなければならないとゆうて、信心を段々、段々しなければとならないとゆう努力です。云うならば、それを自力とも申します。仏教的に申しますと、その自力のところがです。五十の第一歩のところからです。本当の意味に於いての自力の信心がなされてくる。いわゆる金光大神の教えて下さった道を本当にふみ間違うまいとして努力する訳です。
%V努力して、努力してそんなら九十迄行った時にです。又、そこに行きづまるのです。とても、とても自分で出来る段ではないとゆう事に行きづまるのです。例えば、それをひとつの改まりと致しましょうか、まあ簡単な事から、いろいろ改まらして頂こうと、お話しを頂いて、いよいよ改まっていく、人間がやっぱり変わってくる。五十から、百迄の間に段々段々変わってくる。九十位迄行った時には、もう本当に二人見るように変わってくる。
%Vところが、その九十から後、あと十とゆう時です。とても、とても自分で出来る段の事ではない事に気がつきます。いわゆる自分の本当の、これは改まりひとつの事の上に於いてもです。とても自分には、こうゆうガンのようなものがある。このガンがあったんじゃあ、助かられないのだと血みどろになって、そこに取り組んでみても、自分ではどうにも出来ない、とゆうところに直面致します。
%Vいわゆる自分の内容と云うか、自分の心とゆうものを深く、深く自分のいわゆる本当の正体とゆうものが分かってくる訳です。そして、このような私とゆう事になってくる。こんな相済まん私、こんな浅ましい私とゆう事になってくる。
%Vそんなら、その浅ましいものを取り除けや、よかじゃないかと、云やそれ迄ですけれども、それをそんなら取り除こうとするところにです。それはもうガンのようなものですから、そのガンを取りよったら、もう死んでしまおうかとゆう位に難しい。
%1昨日の十三日会に、飯塚の安藤さんが永い間、お取り次ぎを頂いて、おかげを頂かれた方を是非今日は自分を連れて参ってくれとゆう事でお参りしてみえた。その方は、もう医者が完全に見放してもうておる子宮ガンであった。ずーっともう安藤さんがお願いにお願いし続けられました。
ところが、大変な奇跡が起こってきた訳です。これは助かるかもしれんとゆう事になってきた。そして、おかげで退院とゆうところ迄おかげ頂かれた。ガンとゆう病気はもう命とり、それを例えば手術して取り除くといったような事でもです。もうこれを取ったら本当に命がないかもしれんとゆう程しの事なんだ。けれども、ここでガンでおかげ頂いた人はたくさん有る。例えば大城の福島さんに於いてしかり、近くではそこの中村さんに於いてしかりである。
%V例えば、そんならそうゆう私共の心の上にガンが有る、そのガンがあっては助からんとゆう事を、自分で見極めるようになる事が出来る。五十から百節の信心を進めていきよるうちに。これをいっちょ改らなければ、これが自分方のめぐりじゃと、これが家のめぐりじゃと思うようなガン固なものにです。ぶつかる時です。一生懸命努力した、それこそどろどろ。
昨日は八時から十時迄、私は昨日有り難いと思うた。松栄会の方達が全員、昨日は十三日会に出席しとりましたが、これからの松栄会は月に一回だけ、親先生を中心にしての信心共励を頂きたい、そして根本的な、例えばところからひとつ本当に信心を身につけていきたい。とゆう願いが八時から二時間、もう本当に有り難い、信心の共励と云うか、勉強と云うか、もう今日は先生、一人一人のですね、もうそのものズバリにね。もう一刀両断に切り捨てるような思いで、一人一人の信心を切って下さいとゆうのが願いでありました。
それで私は一人一人の信心を聞き、又それを私が云うなら、自分で教導出来る事ではないのだけれども、しなければおられない、とゆうところの見地に立って教導させて頂いた。
もうそれこそです。どろどろの人生と云うか、信心と云うか、それがひとつになってね、どうにも出来ん、泥沼の中に足ふみ込んでおるようなものを感じる人達が有るのです。
けれどもね、私はそれを話しよってから、涙がこぼれたそうゆう中にあってもやっぱり、一番底には「生神金光大神、親先生!」とゆうのが有るとゆう事。だから、それでいいんだと、人生とゆうのは、そのように本当にどろどろにするような、云うならものを感じる、と。
けれども、そこを真剣にね、やはり底の底の所には、生神金光大神を唱えて、そうゆう人生の難儀に取り組んでおるとゆう事。もうそれも取り組むと云うよりも、取り組む力も抜けたような感じだけれども、それでも転落しながらでも「金光さま!」と云いながら転落していきよるのじゃから、それでいいて、私は思うた。
%Vそうしてです。例えば信心の中ばの五十から、一歩ずつ真の信心に近付かせて頂いて、ぎりぎりのところはまあ九十とゆうところ、そして自分のガンに目ざめ、自分のガンに気付かせてもらうて、これを切断してもらいたいけれども、これを切って取りよったら命がないかもしれん、とゆう程しの大変な事に気付かせてもらう。
%Vそこでです、九十から百までの間がです。そんなら、これはひとつの改まりなら改まりとゆう事でもです。神さまのおかげを頂かなければ、云うなら天祐的なですね、特別な奇跡でも頂かなければ、この九十から百迄の改まりは出来ないんだとゆう事。
%Vそうしてですよ、そうしてなお又分からして頂く事は五十から九十迄は自分の努力、云うなら自力の信心をもってやってきたけれど、後の十とゆうものは他力によらなければ神さまのおかげによられなければ出来ないのだ。と、ゆう事が分からして頂いて、そこに又、いよいよ本気での改まりと云うか、いわゆるガンの取り除きを願わしてもらうところに、云うなら手術をせんでもです。手術をせんでも、例えば昨日安藤さんのお導きしてみえた子宮ガンの方じゃないけれども、奇跡的なおかげになってお礼参りが出来る程しにおかげを頂かれたようにです。その九十から百迄のところの、自分の力ではどうにも出来ない、とゆうものがです。天祐によって、奇跡的な神さまの働きによってです。それを取り除いて頂く働きが出来た時に、百節とゆうおかげ、そこに芽出度、芽出度の家繁盛子孫繁盛のいわゆる基礎土台がそこから出来てくる。
そうして分からして頂く事はです。本当に例えて云うならば、五十から九十迄は自力の信心をもって、一生懸命やってきたが後の十のところが他力によっておかげを頂いたとゆう事になって、そこで分からせて頂く事は、あれは自力ではなかった。やはり、あそこも神さまのおかげを頂かなければ、出来る事ではなかったんだと分かる。
そこんところが、三つの一番最後に申しました、そうしなければおられないとゆう事になってくる。自分で出来るとゆう事はない、それでもしなければならない信心とゆうものは。
しなければならないとゆうところが、私が今日そこに自力と申しました。
そうして、その難しさに辟易する思いで九十迄はたどりついたが、もう後の十はどうにも出来ない、そこに天祐を願うより以外にはないとゆう。そこからほっかりする程しのです。おかげが頂かれて、本当の純粋な心で実意を以って、全ての事が願わずにはおられない、いわゆる信心はせずにはおられない、とゆうところに致った時です。私は本当の信心とゆう事になり、御理解百節に頂いておるようないわゆるおかげの基礎・土台とゆうのは、そこから出来てくるのだと。
犬やら猫やらがダニがここに食いついている。それで犬やら猫やらが苦しむ、それこそだんごろりんして苦しむ。自分ではどうにも、それを取り除く事は出来ない。そこ迄が云うなら、八十、九十とゆう間は、そこんにきじゃないでしょうかねぇ。
自分はこれを改まらにや、けれどもこれを改まるとゆう事は人間、やめてしまわんならんごたる感じがする。とても、これをとったら命が危ないように思う事がある。それでもね、やはりしなければならない、それでもやはり改らなければならない。云うなら犬やら猫に、ダニが食いついて、だんごろりんしておるようなものなんだ。そのだんごろりんしておるそこのところが素晴らしいのである。云うなら、尊い信心修行が一生懸命出来ておる時なんだ。
それを例えば、御覧になった神さまが、そこに天祐をもっておかげを下さる、もういと簡単に下さる、そこんところは、
例えば犬やら猫やらがダニがついてだんごろりんして苦しんでおるのをです。そんなら、人間が「あら、これはえらい、だんごろりんしよるが、ダニか何かおるとじゃなかろうか」と思うてから、抱き上げて、ああここにダニが食いついとるけんで、と云うてから、ちょいととってぬけてやるようなもんです。
そこに例えばほっかりするようなもの、人間のガン、そうゆうガンとゆうものがです。人に災いするだけではない自分自身が助からん、とゆうところ迄、究めていくとゆうのはね、五十からです。
だから五十迄の信心を私は今日雑信と申しました。その時には実を云うたら金光さまじゃなくても、何様でも御利益さえ頂きやあよかとゆう事なんです。 けれどもその五十の信心をしていきよる時に信心の何たるかを分からしてもろうて、神さまとのつながりを段々分からして頂くところから、ガラッとかわる姿勢、信心の姿勢がそこから生まれて来る。
そこに致ってです。私はこの五十一節ですねぇ、天地の間に棲む人間は神の氏子としての本当の自覚が出来る訳です。
%Vそこで身上痛みとゆう、これは身上だけの事ではなくて、心の中にある苦しみといったようなもの、心の中の病気といったようなもの、家業出精出来難し、云うなら心の悩みがあったら、仕事がしにくいようにそこで身上安全を願い、これは心の安心を願っての信心になってくる。
%Vそこからです、それこそ自分の周辺の全ての事、自分の動きの全ての事がです。願わずにはおられないとゆう信心が、生まれてくる。実意をもって願えとおっしゃるのはね、今日私が申しましたようなそうゆう純粋度の高い、高度な、それは丁度、乳のみ児のような、心の状態とでも申しましょうか、そうゆう心の状態をもって願う、もう願わずにはおられないとゆうところに致ってくる時です。家繁盛、子孫繁盛、いわゆる百節に頂くようなおかげが頂かれる。
いわゆる金光大神は、そうゆう道を教えて下さるのである。今日の五十一節はね、云うならんば、一から五十迄の間でもです。この御理解は頂けますよね。今日私は雑信と申しましたが、雑信の間でも、ここのところをこのままに頂く事が出来ますよ。
けれども、五十のところ迄お互いの信心が進んで、これから第1歩とゆう時にお互いの信心の目ざし、目標とゆうものが全然変わってくる、そこから信心の姿勢が本当に変わってくる。
そこからが真の信心だと、今日は聞いてもらいました。そして、そこからいわゆる自力の努力と云うか、眠かばってん辛抱して参って来る。さあ、お水をかかってみる事もある。ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと練ってくる。その時を私は自力の信心と、こう云う、それを九十のところ迄が自力の信心。
%Vけれども自力ではどうにも出来ない事に直面する、そして九十から百迄の間は、やはり天祐を受けなければ出来ない、いわゆる他力とゆう事ですね、他の力、他にある偉大な力、その力によらなければ出来ないと、気付かせてもらう、そこからね、他力の働きが始まっていと簡単にそのガンがとりのぞかれると、そしてほっかりするようなおかげを受けられて、又自分のそんなら、五十から百迄の間をふりかえってみて思う事はです。とても、とてもあの五十から九十迄の間だって自分で出来た事はひとつもない事が分かる。
水をかかった事も、毎月朝参りさせて頂いた事も、やはり許されて水をかかっておったんだなあ、許されてお参りさせて頂いておったんだなあとゆう事が分かる。
%Vそして他力によらなければ、いわゆる神さまのおかげを頂かなければ、いわゆる神さまのおかげを頂かなければ立ち行かんのだとゆう事が分かってくる。 そうゆう信心を目指して、お互い信心の稽古をさせて頂かねばならんと思いますね。どうぞ。